考えに対する言葉の役割と解釈
人がコミュニケーションをとるとき、言葉を用いて意思の疎通を図る。
これは言葉を覚えてから死ぬまで繰り返し行われる行動であり、言葉を通じて喜びであったり生きがいを得ている場合が多いと推測される。
それは言葉が人の考えを伝えるために用いられるためであり、人は他人の考えを共有すしたり共有してもらうことによって嬉しく思うのだと思う。
しかし時たま、コミュニケーションをとる中で、自分の考えが伝わっていないなと感じることがある。
原因としては「伝え方が悪かった」であったり、「立場や年齢が異なる人と話していた」であるなどが考えられる。
この二つについても深く考察すべきであるが、今回は棚上げにしておく。またの楽しみにしておく。
自分の主張から先に言うが、言葉というものは考え(抽象的な事柄然り)射影にすぎない、というのが自分のそれである。
人が相手に自分の考えを伝えようとするとき、口という光源から考えに光を発し、映し出された射影を、私たちは言葉と言っているのではないだろうか。
先ほどの自分の考えが伝わらない場合の例で解釈すると、こうである。
考えの存在は立体的に確かに存在している。しかし、それを伝えるときに言葉を用いると相手にみえるのは平面的な影のみになってしまい、結局伝わらない部分が多く出てしまうのであろう。
射影には色もなく、暖かさも感じれないのだ。
まだまだ思考の余地はあると思うが、夜も遅いのでまた今度としよう。